「掛け算の順序問題」について思うこと

正直なところ言及したくない話題なのですが、最近あまりにもひどい動きが散見されるので今の私の考えを書き留めておくことにします。

予めこの記事で「しないこと」について記しておきます:

  • 丁寧な背景説明
  • 現行の教育方針に対する是・非の判断

何が問題なのか?

客観的な事実

a と数 b があったとき、a\times bb\times a は同じ結果をもたらします。両者は等号で結ばれるものであり、両者に数学的な違いは存在しません。これ自体は疑いようのない事実であり、誰の目にも明らか[1]です。

注意すべきなのは、このことを理解するために高度な数学の知識は全く必要がないということです。つまりここで「実数体の乗算の性質が」とか「可換環が」とか言い出すのは追加の情報を与えないので無意味な行為です。

そしてそれは同時に、高度な数学の知識を有していることがこの問題に向き合うにあたってアドバンテージになることはないということを意味します。

数学的に正しいことは元より明らかなので、そこをそれ以上語っても仕方がないわけです。つまりこれは数学の問題ではありません。もう少し正確な言い方をするならば、数学はこの問題の本質ではありません。まずそこを勘違いしている人が多いように思います。

何が起きているか

以上を踏まえたうえで実際に教育現場で何が起きているかを振り返ります。よく話題に上がる典型的なものは、

  • 算数の文章題において、
  • 乗算の立式の段階で、
  • 数字が特定の順序で書かれていない答案を × とする

というものです。乗算の順序が結果に影響を与えないにもかかわらず片方の答案を × とするのは、数学的に考えて明らかにおかしいわけです。

多くの人々はこの段階で怒り出します。過去の私もその一人です。「算数」という数学の前身にあたる教科であるにもかかわらず、数学的に正しい答案を × にするのはどういうことか、と。

次に人々はこの教育方法を「悪」であると判断し、こうした教育を実際に行っている現場の教職員、ならびにこの教育方法に対し寛容的な態度を示す人々を「敵」と見なして猛烈に批判し、しばしば集団で罵詈雑言を浴びせます。そして、こうした活動を行う人々の中には多くの有名大学の理系教員や著名人が含まれています。

結果として、騒ぎに巻き込まれたくない人々にとってはこの話題自体がタブー視されるようになり、「熱心な活動」を行わない人々の間で言論が抑制されていきます。ここまでが「実際に起こっていること」です

前提を見直してみる

ここまでの過程において、人々が怒り出した主たる要因は「数学的に正しい答案に × が付けられた」という点でしょう。そしてその前提には「数学的に正しい答案には常に 〇 が付けられるべき」という考えが存在します。

では、そもそも本当に「数学的に正しい答案には常に 〇 が付けられるべき」なのでしょうか?

例えば次のような例を考えてみましょう。

  • 「4+5 = □」という出題がされたら、□ には「4+5」ではなく「9」を書き込む。
  • 小数を含む筆算の結果、整数が得られたら最終的な結果から不要な「.0」を消す。
  • 分数が得られたら、可能な限り約分を行う。

どれもごくごく「当たり前」のことで、これらに反するような例を見つけた場合は「何か特別な事情があるのではないか」と疑うはずです[2]

そして忘れがちですが、私たちがこれを「当たり前」と認識するようになったのは、何も生まれつきそうだったわけではなく、そのように教育を受けたからに他なりません。

では、その教育の過程において、「数学的に正しい答案」にはすべて 〇 が付いていましたか?

 

答えはノーのはずです。では、なぜ数学的に正しいはずの答案に × が付けられたのでしょう?

答えは簡単で、「数学的な正しさよりも優先すべき対象があるから」です。この場合は数学における「常識の獲得」です。

つまり教育課程における採点の結果というのは学習に対するフィードバックであり、数学的な正誤を必ずしも意味しないのです。これも多くの人々が誤解している点です。

数学は国語である

よく「教師に忖度をしないといけないのか」と言う人がいますが、その通りです。試験とはそういうものです。数学的に合法であるあらゆる操作が許可された試験などというものがあったら、そんなものは試験として機能するはずがありません。

試験とは出題者との対話であり、出題者の意図を汲み取って自らの理解を示すことが目的であるはずです。そしてこれは小学校のテストから大学の入学試験に舞台が変わっても変化するものではありません。

例えば

\lim_{x\to0}\sin x/x=1 を証明せよ。

という問題が出たとしましょう。大学入試では、原則として高校までの課程で学習した事実は無証明に用いてよいはずです。

それではこの問題に対する解答として「\lim_{x\to0}\sin x/x=1 である。証明終」という証明を書く人はいますか? いないですね。単なる数学的な正しさという枠組みを超えて、出題者が何を要求しているのかを理解し、求められている適切な解答を把握することができるからです。そしてそれは小学校(あるいはその前)から続いてきた学習と、それに対する適切なフィードバックがあったからこそ獲得することができた能力なわけです。

何が言いたいかというと、我々は常日頃からこれまでの体系立った教育の恩恵を享受している身にあるということです。

改めて、何が問題なのか?

ここで本題に立ち返ってみます。教育の過程において、「文章題における乗算の立式の順序を制約する行為」が不適切であるとしたら、それはどのような視点から批判されるべきものなのでしょうか。

本来あるべき批判の形

これまでの話から、少なくとも「数学的に正しいのだから × を付けるな」という批判は的外れであるということが分かります。

もう少し理解の進んだ人だと、「教育上このような悪影響があるのだからやめろ」という批判をします。これは半分正しい批判です。

何故半分だけかというと、現行の教育方法に対する視点・分析が欠落しているからです。

前に述べた通り、「数学的に正しいはずの答案に × を付ける」理由には「数学的な正しさよりも優先されるべきと判断された対象」の存在があります。そして、学習指導要領を読むと、その対象とは「被乗数と乗数の区別」であるらしいことが分かります。

つまり、現状敷かれた(あるいは事実上敷かれている)ルールというのは、「掛け算を習いたての段階においては、乗算の可換性よりも被乗数・乗数を区別することを優先すべきである」という判断のもとに成り立っているということが推測されるわけです。

したがって、「文章題における乗算の立式の順序を制約する行為」に対する理想的な批判は、「乗算の可換性を犠牲にして被乗数・乗数を区別させる教育方針と、この段階から立式を可換にする自由を与える教育方針を比較したとき、両者のメリット・デメリットを比較して後者の方に分がある」という形になるわけです。そしてこのような形の批判をしている人はほぼ存在しません。

「見えてこない」メリット

こうなっている背景の一つとして、現行の教育方針に存在するメリットが構造上見えてこないからという点があるのではないかと思っています。

教育が上手く進んだ場合、それは文字通り「順調に教育が進む」のであり、「問題が発生しない」ということこそが最大のメリットとなります。つまり、基本的に我々は「現行の教育方針の具体的なメリット」を発見することができないのです。ましてや方針の一部ともなればなおのことです。何かが分かりやすく表に出てくるとしたら、それは大抵の場合デメリットです。

これは UI/UX のデザインにおいても共通する問題です。「良い UI」とは「ユーザーに意識させない UI」のことであり、したがって「良い UI」は基本的に正のフィードバックを得ません。一方で「悪い UI」に対する不満が各所で噴出することは皆さんご存知の通りです。

簡単な問題ではない

ここまでくると、この問題が決して簡単な問題ではないということに気付きます。

最後に示した形で批判をしている人がほぼ存在しないと書きましたが、それはそのような形で批判をすることがそもそも非常に難しいからであり、そして問題に潜む本質的な難しさに気が付いた人々は無暗矢鱈な批判をしないからです。

この問題は決して「悪の現行教育方針 VS 正義の数学者たち」という構図にはなっていません。

そこに存在するのは複雑なトレードオフであり、これまで積み重ねてきた教育の歴史であるわけです。そして、この問題において真に専門性を発揮できるのは数学者ではなく教育学者なのです。初等教育に高等教育の方針を持ち込もうとして生じた悲劇についてはどれくらいの人が知っているでしょうか。

 

もう少し、謙虚になってみませんか。

追記

予想通り様々な反応を頂いたので、その一部について反応を返していこうと思います。

よく分からない

「よく分からない」という反応を複数頂きました。冒頭に書いた通り、この記事では現状の施策に対する判断を下していませんし、何か具体的な改善案を提示したわけでもありません(というか、私にはそれができません)。問題に対して、ただそれが簡単ではないということを根拠を示しつつ論じたのみです。

つまり、この記事を読んだ結果「歯切れが悪い」「よく分からない」という感想を抱くことは非常に正しいのです。

この記事の目的の一つは「決まり切った結論があると信じて暴走する集団を牽制する」ことなので、「よく分からないな」と感じてもらえた時点で目的の一部は十分に達成されているわけです。

一方で、うまく言語化できないモヤモヤみたいなものを抱えていた人にとっては腑に落ちる内容だったかもしれません。

「歴史」は本当に存在するのか?

そもそも現状の方針が「試行錯誤の歴史の結果にある」ということに疑いをかけるような反応も頂きました[3]

これは結構すごいことを言っていて、現在の教育方針(の一部)が、それまで得られていた経験とは独立に、ある時点で突然何の脈絡もなくポンと湧き出た(歴史がないとはそういうことです)と考えているということになるのですが、そんなことはあり得ないのは具体的な根拠を示すまでもありません。そういう態度のことを「謙虚さがない」と言っているのです。

そして、仮にそれが本当に正しかったとしても、現状のルールがただ無目的に設置されているのではなく、「被乗数と乗数の区別を優先する」という目的をもって設置されたであろうことは、先に示した通り現在の情報だけから推測することができます。

つまり、結局のところ「今なすべき議論の理想形」に変わりはないのです。

追記 2 (2024/8)

数日前までずっと静かだったのに突然注目されてびっくりしています。まあ予想していた通り賛否両論、といった感じでしょうか。が、おかげで新しい反応をたくさん頂けたので、言及する価値があると思える意見や批判についていくつか触れていきたいと思います。

そもそも今のルールのメリットは具体的に何なのか?

これについては申し訳ないのですが自分からは「はっきりとは分からない」と言わざるを得ないです。例えば「後続する割り算の学習において、乗数・被乗数を区別して認識できることが理解の助けになる」とよく言われていたりしますが、自分は教育学の専門家ではないので、これが真実であるかどうか、あるいは他に特筆すべきメリットがあるのかどうか、というのは把握しきれていません。

ただ一つ言えるのは、自分は「百害あって一利なし」、あるいは「百害あって一利程度しかない」という意見については懐疑的であるということです。記事中にも書きましたが、「教育がスムーズに進むメリット」というのは可視化されないので、方針を変えて今まで通りに上手くいかなくなって初めて前の方針のメリットに気付く、というようなことが生じ得るのは容易に想像が付きます。

かと言って「現行の方針から変えるな」と言うつもりもないので、実際に影響を調べるべく社会実験を行う、といった活動はあっても良いのでは、と思っています。

「現状肯定主義」に傾倒している

この意見も結構見られました。が、私は「今のところ上手くいっているのでこのままで良い」とも「現状が安定しているのでここから変えるな」とも言っておらず、「現状存在しているバランスについてきちんと評価しろ」という主張をしています。

「何かを良くするために現状に修正を加える」というのが目的であるならば、まずは「今の状態」をきちんと評価し、「修正後に見込まれる改善」についても同様に検討をしたうえで修正が(時に試験的に)行われるべきです。そうした評価や検討についても「現状肯定バイアスである」として棄却されるならば、それはもはや修正ではなく暴走と呼べるのではないでしょうか。

論理が飛躍している

いくつか頂いた批判です。実際そうなのかもしれません。が、如何せん書いた本人はそのことを認識するのがとても難しいので、できる限り具体的な批判を貰えると嬉しいです。

論理が飛躍しているというのは、「自分にとって許容しがたい結論が導き出された」ということではなく、「前提に対して過剰な結論が推論によって導き出された」ということを意味します。

例えば、「「数学的に正しいのだから × を付けるな」という批判は的外れである」という結論は、

  • ある種のルールは「数学的な正しさよりも優先されるべき事項がある」ために、数学的正しさだけをもって判定されない
  • したがって、そうしたルールを否定するために、単に「数学的に正しくない」という理由を持ち出すことはナンセンスである

という推論によって導出されています。私はここに「論理の飛躍がある」とは思いません。

なので、論理の飛躍を指摘する際には

  • どの前提条件から
  • どの結論を導き出すことが
  • どのような理由によって「過剰である」と考えられるか

というのを添えてもらえると、その主張が正しいかどうか検討する上でとても助かります。

実際の現場はもっと酷い

そういう例もあるというのは認識しています。これは実際問題であると思いますし、こうした問題は「教師側の勉強不足」ににより生じているもの思います。

ただし、ここでの勉強不足というのは、決して高度な数学の理論ではなく、自分たちが「何を」「どのような理由によって」「どのような順序で」教えているかということの認識の欠如であると思っています。

国語のことは国語でやれ

まあ字面だけ見ると正しそうなのですが、「算数を教える行為」というのは残念ながら純粋に数学的ではありません。

人間は数学的にはできていないので、効率的に概念や常識を学ばせるにはあれこれと数学の外側で工夫をしなければなりません。これを「国語」と表現するのはいささか不適切であったかもしれませんが、その種の工夫が必要である・有効であることは確かだと思います。そして繰り返しになりますが、この分野で真に専門性を発揮できるのは数学者ではありません。

出題に際してルールが明示されていない点が問題である

これは実際どの程度が正しいのかが気になっています。こと小学校のテストというのは授業を受けた前提で実施されるので、「授業ではそういう説明がされているので、テストではわざわざ明示する必要がない」というのが大半だと思っていたのですが、実際説明が不十分なまま実施されるケースってどの程度なんでしょうか。

で、「返ってきたテストを受け取った保護者」はそういう説明を受けていないことは当然なわけで、断片的な情報しか観測していない主体によって拡散される情報ってどの程度信憑性があるのかなというのは常に気になっています。

もちろん無を与えれば無しか返ってこないのは明白なので、十分な説明なくルールを課すというのは意味のない行為だと思っています。

子供が納得していない点が問題である

自分からするとむしろ大人の方が納得していないように見えます。

既に義務教育を終えて数学の全体像を理解している大人からすれば、乗算が可換であることも状況に応じて自由な立式をしてよいことも「当たり前」なわけですが、彼等はまだそうした常識を獲得する途中の段階にあるということを忘れていないでしょうか。

本文中にも書いたように、テストというのは学習に対するフィードバックであるので、「今の段階で学ぶべきルールを理解していない兆候」があれば × を付けるのは必然ということになります[4]

そして、「ルールに対する理解・不理解」と「ルールに対する納得感の有無」というのは本来独立して語られるべき事象です。

例えルールに対する納得感がなくとも、ルール自体を理解しているのであればテストにおいてルールを守った解答をすることは十分に可能であるはずです[5]

すると、テストで × を受け取った生徒というのは、(わざわざ反抗的な姿勢を示そうとでもしない限り)そもそも必要なルールを理解していない可能性が高いわけです。で、それを見た保護者がルールを確認し、そのルールに納得できず、生徒が理解できないルールに対する正当性の疑義を表明する、というのが一連の流れであるように見えます。

「子供の不理解」を知らず知らずのうちに「大人から見た納得感」に置き換えてしまっていませんか?

ただし、それはそれとして、先程独立であると書いた通り「ルールの正当性」自体には議論があって然るべきです。しかし、「子供の納得感」をここで持ち出すべきではありません

バツを付けられた子供の気持ちを無視している

上と似たような内容です。

書いた人は無自覚なのかもしれませんが、この主張には「不当なルールによってバツを付けられた可哀想な子供」という前提が潜んでいます(正当なルールに違反してバツを付けられたのなら誰も文句は言わないですよね?)。

つまりルールの正当性について議論する段階でこの主張を出すのは「このルールは不当だから不当にすべきである」というトートロジーになるのであって、ゆえに無敵かつ無意味です。

こういう「自分の "お気持ち" や "不満"」を子供という innocent な存在を盾にして正当化しようとする行為って非常に健全でないと思うんですが、まあ無自覚なら仕方ないのかもしれません。

単位を書かせるべきである

これは実際とても良い落としどころだと思っています。

繰り返しますが自分は教育の専門家ではないので、この方策が(特に乗算を習いたての段階において)どの程度有効であるかは判断しかねます。ただ、今まで言及されていた様々な問題を解消してくれそうな予感はしています。

ところで、単に(適当な文脈で)「A × B」と言われたときに「B が外側に来ている」(すなわち、A という塊が B 個ある)と感じる/感じやすいのは世界共通なんでしょうかね?それとも文化によって違ったりするんでしょうか。

拒絶

不要な言葉を除くと何も内容が残らなかったり、明らかに有効でない反駁だけが書かれているものなど。それぞれは特に言及する価値はありません。

なにせこの問題に熱心な人々の多くは「怒りのエネルギー」に満ち溢れているので、この記事を公開した時点でこうした反応で埋め尽くされることは十分覚悟の上でしたが、自分が予想していたよりもずっと多くの人々が内容を冷静に受け止めてくれた[6]と感じています。

特に一部の人々を内省させるには至らなかったとしても、これまであまり関心がなかったような層の人々がこの周辺の話題に潜む物事の複雑さを認識するきっかけにはそれなりになったようで、まあ非常に重い腰を上げてこの記事を書き上げた甲斐は十分にあったかなと思います。


  1. こう言うと「厳密な証明」がしたくなりますが、現代数学の公理はこうした初等的な要求を満たすように設計されているものであり、証明に成功したとしてもそれは「公理の妥当性検証に成功した」という以上の重要な意味を持ちません。 ↩︎
  2. ここでの特別な事情の例としては、「有効数字を考えている」「約分をしない方が意味が明瞭になる」などが考えられます。 ↩︎
  3. 似たような意見で「現状は完全に狂っているので考慮に入れる価値がない」というものもあります。これが間違っていることは今まで説明してきた通りですが、分野は違えど何かしら「専門」を学んだ人からこういう言葉が出てくるのはなかなかショッキングです。 ↩︎
  4. これは「ルールの妥当性」とは独立しています ↩︎
  5. たまに「ルールを理解した上であっても解答に悩むような、すごく奇妙な問題」が流れてくることがありますが、まあそういうのはここでは無視することにします。 ↩︎
  6. これは「肯定的な反応をした」と同義ではありません ↩︎

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